神戸市東灘区(甲南山手) 内科・循環器内科 高血圧・糖尿病・高脂血症・心不全


つじもと内科・循環器内科

手摺なき思考

一つ好きな映画の話をさせてください。少し前ですが米国のハンナ・アーレントという女性哲学者が日本でブームになっていました。このブームの火付け役は同名の「ハンナ・アーレント」という映画ですが、この映画は東京の劇場で大当たりを取ったそうです。このような地味な、しかも一般受けしそうもない硬派な映画が評判を呼ぶということで、東京という都市の多様性、懐の深さを改めて感じました。
映画のあらすじをお話します。ハンナ・アーレントはナチスからの迫害を逃れて米国に亡命したユダヤ人の哲学者です。彼女は戦後、雑誌社の特派員として、ユダヤ人の虐殺(ホロコースト)に関与したドイツ人のアイヒマンという将校の戦争裁判を傍聴する機会を与えられました。ただ裁判の場で彼女が目にしたアイヒマンは決して極悪人と言う感じの人物ではなく、どこにでもいるありふれた人物のように映りました。その後、彼女はアイヒマンの裁判について特派員報告を行うのですが、その報告でアイヒマンは極悪と言うイメージからほど遠いごく普通の凡庸な人物であることや、ユダヤ人の指導者の中にナチスの行為に加担した者がいるとの事実を記事にしました。このことが原因で、彼女はユダヤ人社会から激しい批判を浴びました。ホロコーストに関わったアイヒマンを擁護するのか、あるいはユダヤ人指導者に対する言及については民族の恥をさらすのか、我々ユダヤ民族に対する愛はないのか等々。激しい非難のなかで大学の教職からの辞職を求められたときの、学生の講義での火の出るような演説のシーンが映画での最大の見どころです。
悪とは決して特別なものではない、社会の中で普通の人が何らかの原因で思考停止に陥ったとき、彼らは人間性を失い、とんでもない悪事を働くことがあると彼女は主張し、「悪の凡庸さ」と名付けました。同様の例は実社会でもよく見られます。例えば上司の命令だったからしょうがないとか、皆がするからしょうがなかった等などです。余談ですが「ローアンドオーダー」という大好きなテレビドラマがあります。普通の人も状況によっては悪事を働くということを意図して描いているかどうか分かりませんが、刑事がいざ犯人を捕まえてみると、犯人はいかにも悪党面をした人ではなく、一見普通の人であることが時々あります。
ハンナ・アーレントは善悪を見分ける力は、考える(denken)ことによってしか得られないと主張します。これだけ変化の早い現代社会では、既存のモラルだけでは現実に対処できない状況になっています。私を含めて凡庸な人が忙しさに流されて、充分に考えずに安易に物事を行うと、とんでもない過ちを引き起こす可能性を常に持っています。「悪の凡庸さ」に陥らないため、毎日考え抜くことが何より大切ではないかと思っています。アーレントを形容するのに「手摺なき思考」という言葉が使われることがあります。これは従来の秩序感が機能しないときも、そのような状況にひるまず立ち向かい問題に対峙する姿勢を表します。最近もの忘れが多くなり、認知機能の減退に気を付けないといけない年齢になってきました。そのため、深く考えず安易に物事を勧めようとすれば、思わぬ失敗をするのではないかと心配になります。そんなときは「手摺なき思考」ではありませんが、いや待てdenken、denkenと心の中で繰り返すようにしています。

カテゴリー:お知らせ   |   2020年9月13日

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